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忘れることって悪いこと?

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どうもこんにちは、シャンクスです。

 

最近私の親は物忘れが多くなってきました。

祖父母はもっとです。

 

それらは今はまだかわいらしい間違いで、ほほえましいのですが、

私の名前や顔が忘れられてしまったら、そのときには冷静さを保ってはいられないかもしれません。

ある意味、生きながらにして忘れられてしまうのは、死なれてしまうよりも悲しいことなのではないでしょうか。

 

 

 

医療の発達とともに、日本では平均余命も健康寿命も延びてきました。

そのことはきっと大いに喜ぶべきなのでしょう。

 

しかし、それに付随して考えなければならないことも出てきます。

その中の一つとして、「忘れること」があります。

 

今回のアイデアは、認知症の問題に取り組む医学生の投稿からです。

 

 

2025年の社会は、「忘れる恐怖」から解放される社会

by Tatsuya Yamada 

認知症では 「自分の研究、自分が作った会社、昨日会った人、コミュニケーション、家族」 これらを忘れてしまう。 2025年の社会は、認知機能向上の薬や、昨日自分にあったことを思い出すことができるITテクノロジー、忘れてしまってもサポートがあり認知症そのものが受け入れられる社会をつくっていたい。

https://wakazo-online.com/posts/detail/362/

↑実際の投稿はこちらから

 

 

私はこの投稿を読んだときに、外山滋比古『思考の整理学』という本を思い出しました。

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)

 

 

タイトルのとおり、思考の整理の仕方が述べられています。

明快な論理とわかりやすい比喩でもって説明されている、非常におもしろい本です。

 

個人的には大学生のバイブルだと言ってもいいくらい大学生には薦めたいと思っています。

もし興味を持たれた方は是非お読みになってください。

 

 

さて、本の紹介はこのくらいにしておいて、何故この本を思い出したのかというところから話を進めようと思います。

 

この本には以下のような一節があります。

少し長いですが、中略を挟みつつ引用します。

 

 これまでの教育では、人間の頭脳を、倉庫のようなものだと見てきた。知識をどんどん蓄積する。倉庫は大きければ大きいほどよろしい。中にたくさんのものが詰っていればいるほど結構だとなる。(中略)

 コンピューターの出現、普及にともなって、人間の頭を倉庫として使うことに、疑問がわいてきた。コンピューター人間をこしらえていたのでは、本もののコンピューターにかなうわけがない。

 そこでようやく創造的人間ということが問題になってきた。コンピューターのできないことをしなくては、というのである。

 人間の頭はこれからも、一部は倉庫の役をはたし続けなくてはならないだろうが、それだけではいけない。新しいことを考え出す工場でなくてはならない。(中略)

 倉庫にだって整理は欠かせないが、それはあるものを順序よく並べる整理である。それに対して、工場内の整理は、作業のじゃまになるものをとり除く整理である。

 この工場の整理に当ることをするのが、忘却である。人間の頭を倉庫として見れば、危険視される忘却だが、工場として能率をよくしようと思えば、どんどん忘れてやらなくてはいけない。

 

外山滋比古『思考の整理学』(ちくま文庫)P.111

 

 

これを思い出したのはおそらく、忘れることはこれからの人間には必要だという本書の論旨と投稿の内容とで折り合いをどうつけるかというところで引っかかったためです。

 

以上の引用を踏まえると、忘れること自体は悪いこととは言いきれないようです。

むしろ、コンピューターの出現以降(今はこの本が著された30年前よりも発展し、AIの議論も横たわっています)、創造性を重視するのであれば、忘れることは必須なのでしょう。人間の脳の容量も有限であるためです。

 

記憶には「忘れてもいいもの」と「忘れるべきではないもの」があり、後者に関しては忘れないような対策を取ること、あるいは忘れたとしてその時の弊害を減らすことが必要なのだと思います。

本で言われているのは前者に属するものでしょう。前者に関してはむしろ忘れては取り込み、忘れては取り込みをするべきだ、と本の後の方で言われています。

 

そしてここにはもう一つ問題があります。

それは、「忘れてもいいもの」と「忘れるべきではないもの」の区別をどこでつけるかということです。

 

私たちは三つのことを考えねばなりません。

それは以上に太字で示した三つです。ここに並べます。

①「忘れてもいいもの」と「忘れるべきではないもの」の区別をどこでつけるか

②「忘れるべきではないもの」を忘れないようにすること

③「忘れるべきではないもの」を忘れたときにその時の弊害を減らすこと

 

先に挙げた『思考の整理学』のたとえを借りるなら、①は工場と倉庫の違いはどこにあるのかの話、②と③は倉庫としての人間の記憶の話だと言えそうです。

②と③は①を考えずしては話が進まないので、ここでは①に絞って話を進めていきます。また、②と③はより専門的な議論も必要になると思われますので、ここでは深追いすることは避けようと思います。機会があれば、インタビューのような形で投稿者に話を伺ってみます。

 

さて、話は「忘れてもいいもの」と「忘れるべきではないもの」の区別をどこでつけるか、です。

投稿では認知症が挙げられていて、「自分の研究、自分が作った会社、昨日会った人、コミュニケーション、家族」が忘れられないようにしたい、ということが読み取れます。

 

おおざっぱですが、これら5つを自分のモノ、他者、関係性に分類して考えようと思います。

「自分の研究」「自分が作った会社」は自分のモノ

「昨日会った人」「家族」は他者

「コミュニケーション」は関係性と言えそうです。

 

認知症には聞くところによると段階があるようです。

本人が苦しいのは、自分の記憶が一部なくなっていることを自覚できる状態のときだそう。

記憶が明瞭なときと、忘れていることさえも忘れているときは認知症そのものを自覚していないので、苦しくはないということでしょうか。

 

だとしたら、認知症の苦しみは多くが本人にとっての苦しみというよりは、周りの人にとっての苦しみだと言えそうです。

冒頭で、「私の名前や顔が忘れられてしまったら、そのときには冷静さを保ってはいられないかもしれません」と書きましたがこれは忘れる側の人の近くにいる、私の苦しみです。

 

このときに、本当に問題になるのは、自分のモノではなく、他者関係性なのではないでしょうか。

 

議論が他者やコミュニケーションの問題にまで行き着いたところで、私たちが次に考えることは、いかにして忘れられるべきか、いかにして忘れられながらもその人との関係を続けていくべきか、ということです。

 

文字数の都合もありますので、日を置き、別の記事で忘れられ方について考えてみようと思います。

 

 

今回もお読みいただきありがとうございました。